「正月は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」

新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 正月というと、二つの歌が思い起こされます。

 ●「正月(門松)は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」一休宗純禅師

 ●「這え笑え二つになるぞ今朝からは」 小林一茶(釋一茶)

◆今回は、「正月(門松)は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」一休宗純禅師をとりあげます。 

 世間では、お正月を迎えると、「新年明けましておめでとうございます」と、お祝いの挨拶を交わします。

 しかし、「めでたくもありめでたくもなし」と言い切った禅僧がいます。「とんちの一休さん」でおなじみの臨済宗「一休宗純禅師:いっきゅうそうじゅんぜんじ」が、正月ムードの京都の町を、竿の先に人間の頭蓋骨を刺して、この歌を詠みながら「ご用心、ご用心」と練り歩き、人々に仏教の教えを伝えて回ったといいます。

 正月に飾られる門松は、「まるで冥土へと向かう道に築かれた一里塚みたいなものじゃ」、正月は、「めでたいことでもあり、めでたくないことでもある」と。「冥土」とは死後の世界のことです。

 一日生きたということは、一日死に近づいたということですから、生きるということは、死に向かっての道のりであり、「冥土への旅」である」と一休さんはいうのです。

 

 「うかうかしていると、人間はたちまち骸骨になってしまうぞ、ご用心、ご用心」ということです。生きること年をとること死ぬことがセットになったこの人生をどう捉えるか、一休禅師の句は、そんな課題を突きつけていると思うのです。

◆晩年、浄土真宗に改宗した一休禅師

 

 また、一休禅師は、浄土真宗(当時は一向宗)のみ教えを「九年まで 座禅するこそ 無益なれ まことの時は 弥陀の一声」と讃えています。

九年まで座禅する・・・菩提達磨(ぼだいだるまは、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧。達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされている。)これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もある。壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことであると言います。

◆一休禅師と交流があり、浄土真宗へ改宗する元となった蓮如上人。

   一休禅師と蓮如上人とのとんち話も多くありますが、その一つに、「曲がりくねった松」があります。

 時は室町時代。七曲がり半に曲がった一本の松の木の前に人だかりができていました。

 そこへ蓮如上人が通りかかります。一体、何の騒ぎであろうかと蓮如上人。

 「これはこれは、蓮如さま。実は、あの一休さんが“この松を真っすぐに見た者には、金一貫文を与える”と立て札立てたので、賞金目当てに集まっているのです。」と。

 集まった人たちは、誰一人として真っすぐに見たという人がいません。

 事情を聞かれた蓮如上人は、「また一休のいたずらか。わしは真っすぐに見たから、一貫文をもらってこよう」と事もなげに言われたので、一同仰天しました。

 「あの松の木、真っすぐに見たから一貫文もらいに来たぞ」

 「ああ、蓮如か、おまえはあかん。立て札の裏を見てこい」と一休さんが答える。実は立て札の裏には、“蓮如は除く”と書かれてあったのじゃ。

 

 「曲がった松を、『なんと曲がった松じゃのー』と見るのが、真っすぐな見方だ。曲がった松を真っすぐな松と見ようとするのは曲がった見方。ありのままに見るのが正しい見方なのだ」と。一同、感服したという。

一休禅師は、親鸞聖人200回忌に本願寺にお参りして、「襟巻の あたたかそうな黒坊主 こやつが法は 天下一なり」と親鸞聖人を讃えます。

 

 そして、一休禅師は、67歳のとき(寛正二年・1461年)無条件で救われる教えのすばらしさに大いに感動し、もともと禅宗の僧侶でしたが、最後は浄土真宗に改宗したことも特筆すべきことです。

実は、一休さんと同じ禅宗の僧侶で、浄土真宗のみ教えに惹かれた方がおられました。

それは、皆さんおなじみの禅僧「良寬」さんです

 良寛和尚も、禅宗(曹洞宗)の僧侶でしたが、数々の句から、阿弥陀如来の御本願に帰依していたことが窺えます。

 良寛和尚の辞世には幾つかの説があります。その一つに、

 「良寛に 辞世あるかと 人問はば 南無阿弥陀仏といふと答えよ」

という句があります。

 その他にも、「愚かなる 身こそなかなか 嬉しけれ 弥陀の誓いにあうと思えば」

そして、阿弥陀如来の本願こそが、この世に生まれた甲斐であった、とも歌っています。

 「不可思議の 弥陀の誓ひの なかりせば 何をこの世の思ひ出にせむ」

最初は禅宗で出家した良寛でしたが、死んで阿弥陀如来の極楽浄土へ往くことを喜ぶ身となったのです。

 「われながら うれしくもあるか 弥陀仏の います御国に いくとおもえば」

 阿弥陀如来の本願とは、どんな人でも分け隔てなく、死ねば極楽浄土へ往生させ、仏の悟りを開かせるという法のことなのです。

 

次回は、●「這え笑え二つになるぞ今朝からは」 小林一茶(釋一茶)お送りしたいと思います。