「伝える」「伝わる」「理解する」「判断する」

2020年10月10日(土)

 

          「伝える」・「伝わる」、そして、「理解し」・「判断する」には!

 

 25年前のことを思い出した。

 教員免許中学校社会科であった私が、22年間の中学校勤務を終え、小学校に転勤した。

 赴任して初めて小学生の前に立った私が、挨拶をし終わって職員室に帰ってきた時のことである。一人のベテラン女教師が、二つのことを指摘してくれた。「言葉が難しい」、そして、「長すぎる」であった。

 (職員皆がそう思ったことだろう。もちろん小学生も。)

 赴任第一声を気負って発し、自分的には、合格点をあげたい気持ちであったので、一瞬言葉に詰まった。しかし、指摘は確かに当を得たものだと気がついた。小学校には、一年生から六年生まで発達段階に大きな開きがある子どもたちがいるのだ。中学生に話す時と違って、「わかりやすい言葉で」「要領よくまとめて」「短く」話すことが肝心であったと、改めて知らされたことである。

 そして、人の前に立って話す時には、このことを肝に銘じ、現在に至っている。

 (本来中学生に対しても、大人に対してもこの二つのことは大切なのだが。)

 聞く側が、話された内容を理解し、その上で判断するためにもである。

 (話しっぱなしで、相手が理解しようがしまいが、どうでもいいと考えている話し手が万が一いるとしたら論外であるが。)

 

 なぜこのことを思い出したのかというと、一昨日ある方のお通夜の席で、法話をさせていただいた時のことである。

 喪主の方が、「ご住職さんは、いつも文字を書いた紙を提示してお話しするのですか」と聞いてこられた。

 仏教語をあまり使わないで話すことを心がけてはいるが、私の能力では極めて困難なことであると自覚している。

 そこで、理解を深めていただくために、印字した紙を提示することにしている。

 この時は、法名(ほうみょう)と「和顔愛語(わげんあいご)」の二つであった。

「法名」とは

 法名というのは「法に帰依した人の前」(キリスト教のクリスチャン・ネームのようなもの)であり、西本願寺で行われる帰敬式(ききょうしき:おかみそり)を受けた人に対して、本願寺住職(ご門主)から授与されるものなのです。つまり、「仏教徒としての自覚を持って生きる」証しの名前であり、生きている間に授かるべき性質のものです。

 

「戒名」とは 

 浄土真宗では「戒名」という言い方はしません。なぜならば、戒名は、自力修行をめざし受戒した人に対して授けられる名前であり、自力修行をしない浄土真宗にはそぐわないからです。

浄土真宗では、戒(※)を守り、自力修行をするのではなく、「聴聞(ちょうもん)」と言い、仏さまのみ教えを「きかせて」いただくことを大切にしています。「話しているこの私」が、そのまま「仏さまのみ教え」を「きかせて」いただくと、受け止める世界があるのです。

 

※戒・・・最低五つ、五戒という。不殺生(ふせっしょう:殺すな 生き物全て)、不偸盗(ふちゅうとう:盗むな)、不妄語(ふもうご:嘘をつくな)、不邪淫(ふじゃいん:邪な性交はするな。因みに僧は不淫。即ち性交を禁ず。これについて親鸞聖人の立場は、今は述べない。)、不飲酒(ふおんじゅ:酒を飲むな。)


  突然「法名」とは・・・と話し出して、理解できる人は、浄土真宗の門徒であり、普段からご法話で聞き慣れている方たちでしょう。

 

 「ほうみょう」という音声を「法名」という文字で示し、話すことにより、少しでも理解いただきたいという私なりのスタンスの表れなのである。

 

 浄土真宗本願寺派(西本願寺)では、二字法名といい、釋(しゃく 釋尊の釋の字)の次に○○(二字)を付けます。

 ○○の下に「居士・信士」「大姉・信女」などの「位号(いごう)という位」は付けません。私の法名は、「釋了正」。

 

 お通夜の席のご法話で、法名についてはいつもお話しさせていただいています。


 

「和顔愛語」とは

 次に、故人が幼児教育に尽くされたということもあり、「保育」に関わって、「和顔愛語 わげんあいご」についてお話しさせていただきました。

 

 「和顔愛語」という言葉は、「和顔」はやわらかな顔、「愛語」はやさしい言葉。つまり、文字通り、笑顔で愛情のこもった言葉で話すことです。

 この言葉は、学校での教訓になったり、額や掛け軸等にも書かれたりして、おなじみになりました。

 実は、この言葉は、浄土真宗の根本経典である仏説『大無量寿経 だいむりょうじゅきょう』に出てくる言葉です。

 法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)が、阿弥陀仏(あみだぶつ)になるために修行に励んでいるところで、「和顔愛語にして、意を先にして承問(じょうもん)す」とあります。現代語版では「表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手のこころを汲み取ってよく受け入れ」と訳されています。

 

 幼稚園長(兼務)をしていた時に、保護者に「ほほえみの保育」ということを話した。要は、乳幼児期には「和顔愛語」が大切だということ。

 ある種の鳥(ガンやカモ・・・)においては、孵化後、雛が「周囲にある、ある程度の大きさで動き、音声を発する物体」を親と認識すること言う。 (「刷り込み」というそうだ。詳細は、検索してみてください。)

  (※動物行動学者のコンラート・ローレンツ(1903-1989)が、最初に論文で指摘したそうだ。)

 

 人はどうだろうか。生まれた時はおっぱいにしゃぶりつくとか、泣き叫ぶくらいの本能しか持っていないそうである。

 胎教の大切さはさておき、人間の脳は、6才までに成人の約90%が出来上がると言われている。

 即ち、乳幼児期が人格教育や認知的学習にとって如何に大切であるかがわかる。

 「臨界期 りんかいき」という言葉がある。「臨界期」とは、その時期に、インプットしておかなければ、その後、獲得しようと思っていても著しい困難がともなうか、もしくは獲得できなくなるということを表す言葉である。

 

 生後1日目には、誰よりも母親の声に、赤ちゃんは反応すると言われている。

 生後2週間以内には、母親の顔と、母親の声が一緒に表れることを学習するようになる。母乳をあげるときの母親の顔や語りかける声がとても重要になる。

 このことからも、たくさんのスキンシップと愛情のある育て方が、発育に大いに関係することなる。(その後については割愛する。)

 

 昨今の、「キレる子供」、「いじめ」、「殺人を犯す子供」、さらには「幼児虐待する親」等々も、この臨界期における適切な環境(教育)が無かったことが一因にあげれるのではないかといわれる。大人になってからでも、学ぶことができるのは言うまでもない。

 (批判続出の政治状況が、どれほど国民・特に子供の倫理規範形成に影響を及ぼしているのかを、文部科学省は、日本学術会議に諮問してみては如何か?諮問しないで、答申がないと言う不毛・言い掛かりな発言がなくなるかもね。)

 

 故人が退職されてからかなり年月が経ているのにもかかわらず、お通夜の席に、当時の教え子の方が遠方から会葬くださり、翌日の葬儀には、当時勤務していた園の園長先生等がこれまた遠方から列席されたりと、故人の生き様が忍ばれ、有り難いことだと感じさせていただいたところである。

 

 こう感じると、きっと故人は、「和顔愛語」の心を持って、幼児教育に、後継者教育(私は、共に学んでと)に尽くされたと、尊敬の念に駆られたところである。

 


 

 

 「判断」するには、「理解」することが大事であり、内容が私に「伝わり」、そして、話し手は分かりやすく、要領よく「伝える(話す)」ことが大事なのであると思う。

 

25年前の、小学校赴任の時が忍ばれ、懐かしく思っているところである。

 

 少々長くなってしまったのは、反省しなくてはならない。