私たちのちかい2                       浄土真宗本願寺派最誓寺 住職堀田了正

2019.4.28 最誓寺 法話会・花祭り・世話人引継ぎ会

最誓寺法話会・花祭り・世話人引継ぎ会を2019.4.28に開催しました。

法話会では、「花祭り」についてお話しした後、「私たちのちかい2」についてお話しいたしました。

その後、会場を最誓寺会館に移し、甘茶をいただきながら、世話人の引継ぎ会を行いました。最誓寺では、地区世話人の任期が2年、輪番制を取っております。世話人の心がけや仕事の内容について話し合いを行いました。

また、「奉仕作業(お盆前・報恩講前)」、「ボランティア活動の再開(6月・12月)」、「カラオケ同好会」について、責任役員の中邑さんから趣旨説明が話されました。

会議終了後、第2回カラオケ同好会を「通信カラオケスナック:ロケット」で開催し、親睦を深めました。

わたしたちのちかい 2

    2019年 門信徒だより           2019年4月28日(日)
                          慈 光(じこう)  
「私たちのちかい」
今回は、四カ条の二番目の「むさぼり、いかり、おろかさ」について、お話しいたします。

 

一 むさぼり、いかり、おろかさに流されず
  しなやかな心と振る舞いを心がけます
  心安らかな仏さまのように


■むさぼり、いかり、おろかさとは
 むさぼり、いかり、おろかさ=三毒の煩悩(ぼんのう)
 煩悩⇔悟り・涅槃(ねはん)=煩悩がなくなった状態・・・心安らか

●むさぼり=貪欲(とんよく)=欲深く物をほしがる、際限なくほしがる
 三大欲望・・・食欲、睡眠欲・色欲(性欲) 財欲・名誉欲を加えて五大欲望と言う。
 三大欲望というものは、ありとあらゆる動物が生存本能として持っているものです。
 栄養(食欲:他の命をいただく)や睡眠をとらなければ死んでしまいますし、生殖活動を  行わなければ種の保存・繁栄は望めません。つまり、三大欲望は、生物ならば必ず備えている欲なのです。
      同時に、欲は、増大し留まることを知らない要素を含んでいて、我が身を苦しめることになりかねません。欲望(煩悩)を消し去ることが出来ない=悟ることが出来ない。
   浄土真宗の根本聖典である『仏説大無量寿経=大経』には、


  「有田憂田。有宅憂宅。(略)無田亦憂、欲有田。無宅亦憂、欲有宅。」
  (田あれば田を憂う。宅あれば宅を憂う。田なければまた憂えて田あらんと欲う。
   宅なければまた憂えて宅あらんと欲う。)


 田んぼがあれば、収穫、水、虫、天候、いろんなことが気になって仕方ない。かといって田んぼがなければ田んぼが欲しくて仕方ない。自宅があったらあったで盗難、火災、などの心配を含めた維持管理への心配にきりがない。なければないで欲しいと思い煩うのが人間であるというと説いています。
 有ればあったで、無ければないで思い煩うのが、凡夫の性と言えるでしょう。

 

●いかり=怒り・瞋恚(しんい・しんに)・嫉み=自己中心的な心で、怒ること、腹を立てること、ねたむこと。「怒り」という漢字の語源は、心の上にヤツ(奴)とあるように「こんなことになったのはアイツのせいだ」と腹を立てるところからきています。
 親鸞聖人は、自分の心深く洞察されて、その著『 一念多念文意 (いちねんたねんもんい) 』に「凡夫というは、無明煩悩我らが身に満ち満ちて、欲も多く、怒り、腹立ち、嫉み、恨む心多くひまなくして、臨終の一念まで留まらず消えず、絶えず」と言われておられます 。
 親鸞聖人のこの言葉をかみしめてみると、そこそこ自分は良い人間だと思っていても、自分のおもい通りにならなければ他人の責任にして怒り、思い通りになれば自惚れて、自分より優れている相手がいれば、妬み、不幸になればよいと呪う恐ろしい心をもっている私であると気付かされます。この心は、死ぬまでなくなりません。

●おろかさ=愚痴(ぐち)=迷妄(真理に対する無知の心。)
  仏教でいう「愚痴」は、仏の智恵に暗いこと、衆生の根本的無知をさす言葉です。世間で言うくどくどと嘆くことを意味する「愚痴をこぼす」「他人の愚痴を聞いてあげる」などと言われる「愚痴」とは異なります。
 私たちの悩み苦しみは、この愚痴より生じていると仏教では説きます。

■これら煩悩を消滅させることによって悟りを開くと説くのが仏教です。
 しかしながら、「むさぼり、いかり、おろかさ=煩悩」を生きている間に自分の力で消し去ることは、不可能であるでしょう。
 親鸞聖人は、比叡の山でこの煩悩を絶つ自力修行をなされました。でも煩悩は絶たれませんでした。いくら修行しても、煩悩を絶とうとすればするほど、ますます勢いづくのが煩悩であることに気付かれました。
 親鸞聖人が皆が救われる道を求めて比叡の山を降りてゆかれるとき、そのお心持ちを存覚上人が、『嘆徳文 たんどくもん』に、次のように書いておられます。
 定水を凝らすといへども識浪しきりに動き、心月を観ずといへども妄雲なほ覆ふ。
 これは、心の中を澄み切った鏡のような水面の如く静かにさせようとしても、すぐに様々な思いの浪が起こってくる。心の中にきれいな満月をイメージしようとしても、すぐに様々な妄念の雲が覆ってしまうということです。

■山を降りられた親鸞聖人は、臨終の時まで断つことが出来ない煩悩をもったまま、全ての者が平等に救われていく阿弥陀如来のみ教え(他力本願)を説く法然聖人に出遇われたのです。
それは煩悩を断じて仏になるということではありません。山ほど煩悩がありながら、そのまま抱き取られ救われてゆくことこそ、お釈迦さまのお説きくださったみ教えの本意であるということに頷かれたのです。

 

●流されず
 「解毒する薬があるからといって、好んで毒をとる愚」という言葉があるように、「煩悩あるがまま救うという、阿弥陀如来の本願力があるからといって、煩悩を増幅する愚」に陥らないようにすることを「流されず」という言葉で表現していると思います。

 

●しなやかな心と振る舞い
 
強い風が吹いても雪が積もっても、柳はしなやかに柔軟にかわし、折れることはありません。「柳に雪折れなし」です。「しなやかな心」とは、自分や他者の多様的な生き方や考え方、存在を認め合う柔軟な心(自他を敬愛する心)、困難や挫折に直面しても、粘り強く最後まで諦めない心 をさす言葉です。

この「しなやかな心と振る舞い」も自己中心的な生き方をしている私たちには、大変難しいことです。
 しかし、「心安らかな仏さま」には到底及びませんが、心がけたい言葉であります。