伝えること・・・正しく、わかりやすく、誠意を持って

2020年5月1日 浄土真宗本願寺派最誓寺住職 堀田了正

今回は、「伝えること」について述べたいと思う。

最近特に、自分の想いを相手に伝えることの難しさを痛感している。
伝える方法はいろいろあるだろうが、私にとってはまず言葉による方法が上げられる。言葉で伝える方法にも、文字や語り(発声)によるものがあるだろう。
「語り」による時は、特に注意を要する。言葉の意味(自分の想い)が、相手にどう伝わるかである。
「漢字」の場合は、読み間違えると、全く伝わらないことがある。

★「云々(うんぬん)」を「デンデン」と
ある人が、「背後(はいご)」を「セイゴ」、「云々(うんぬん)」を「デンデン:伝伝と間違えた?」と言った(読んだ)という。

自分で原稿を書き、自分の言葉で想いを伝えることを大事にする気持ちが少しでもあれば、こういう間違いはなかったであろう。以降この人の読む原稿には、読み仮名がふられたとか、ふられなかったとか。
また、別の人は、「低迷(ていめい)」を「テイマイ」、「有無(うむ)」を「ユウム」、そして有名な「未曽有(みぞう)」を「ミゾユウ」・・・・・等々と読み間違ったことが、大きな話題になったことがある。ただ単に読み方を知らなかったことを問題にしているのではない。語りで自分の想いを相手に伝える事の難しさを言いたいのである。

 

★誤解を与えたとしたら・・・・・という 謝罪のことば

政治家などが、不適切な発言をし、謝罪する時によく使われることばに、「誤解」ということばがある。

謝罪に「誤解」は適切か?

誤解とは、誤って理解するという意味であろう。誰が誤って理解したのかというと、それは「あなたでしょ」。私の言うことを、あなたが勝手に間違えて理解したのだ。即ち、あなたは無能だと言っているのと同じである。これって、謝罪なのかな?

これは余談だが、謝罪の深さを、頭を下げている時間の長さで測っている人がいた。また、頭を上げるスピードも大切だという。早すぎても、遅すぎても違和感が残る。中には、土下座する人もいる。二人以上での会見の場合に、ささやきはマイクに音声を拾われるので、要注意と専門家は言う。なるほど、記憶がよみがえった。

批判されても、謝罪もしない、正当性を主張しない、無視し続ける人もいるし、私だけではないと開き直る人もいるが・・・・・。謝罪一つをとっても、その人となりが分かる。

 

★謝罪でない場合の「誤解」の使い方が話題に!

内容の是非を問うのではなく、あくまで「誤解」という言葉の使い方についての私なりの解説なので、内容には触れません。

誤解ということについて、書いていたら、また、報道番組やネットで話題になっていました。
新型コロナウイルスのPCR検査に関して、「37・5度以上の発熱が4日、等・・・」の見直しについて、
加藤勝信厚生労働相・・・「我々から見れば誤解でありますけれど…」(5月8日 金 記者会見)
「目安ということが、相談とか、あるいは受診の一つの基準のように(とらえられた)。我々から見れば誤解でありますけれど…」と、あくまで基準ではなく目安のつもりだったと発言。
これに対して、ネットでは、「間違えたのは国民や現場のせい、とでも言いたげ」という声が上がっている。

謝罪の時には、誤解の後に、「したら」が続く。謝罪でない時には、「である」なのである。

 

「誤解」の類義語に、「勘違い」がある。同日に、緊急事態宣言の出口戦略を国が示すべきとした吉村洋文大阪府知事に対して、西村康稔経済再生相 が 「勘違いしているのではないか」などと強い不快感を示したという。相手があっての発信。言葉一つと侮ってはいけないところだろう。

 

★カタカナ語
また、カタカナ語については、もう全く分かるか、分からないか、がはっきりしている。
中学校時代、一年生・英語の時間のはじめに、「This is a pen.」(ジス イズ ア ペン)、「I am a boy.」(アイ アム ア ボーイ)と学んでいた。それはそれで、必要な学びであっただろう。確かに、外来語がカタカナ語化し定着している現実は認めるが、私には、今もってカタカナの専門用語はなじめないだけである。

新型コロナウイルスのニュースにはカタカナの専門用語がよく登場する。
安倍総理が、「第三次世界大戦」と喩え、危機感を発信するほどの大問題なので、世界に多く使用されている英語をカタカナ語で示すことは、それはそれなりに意味のあることだと思う。カタカナ語を多用することを得意?としている教養人がいることはいるが。
ただ、自分が時代遅れの人間になっているような、卑屈になってしまうのは否めないだけの話である。

 

★「なんでカタカナ?」
河野太郎防衛大臣が、「なんでカタカナ?」「日本語で言えることをわざわざカタカナで言う必要があるのか」「政府内でむやみとカタカナを使うべきではない。「分かりやすく説明するのが大事だ」等とつぶやいたという。賛同が相次ぎ、「いいね」は24万超もついたという。自分と同じ想いを持った人がいるんだなあと、なんか安心したところである。

 

★クラスター(集団感染)・・・・・
パンデミック(世界的流行)、クラスター(集団感染)、オーバーシュート(感染爆発)、ロックダウン(都市封鎖)、ソーシャル・ディスタンス(人と人との距離を保つこと。2m程)、テレワーク(通常のオフィスから離れたところで働くこと)など・・・・・枚挙に暇ない。
2月頃から、チャンネルを開けば、早朝から深夜まで、コロナについて報道されているので、私にもようやくカタカナ語が分かるようになってきた。しかし、パンデミック→世界的流行→ああ、世界中に広まっていて、大変なことなのだと、三段構えの情けない理解の仕方をいまだしているのだが。

英語を得意としている人や専門家には違和感なく伝わるだろうが、私にとっては、クラスターというより「集団感染」と言われた方が、危機感を感じることが出来るのだが。

 

そうそう、「エビデンス」という言葉も日常よく聞くことになった。調べてみたら、認知率23.6%、理解率は8.6%だったという。根拠、証拠、証言、形跡を意味する英単語をカタカナ語化したものだそうだ。今はコロナ関係でよく使われ、一般化したようである。
「実効再生産数」について、私は、今ひとつ分からない。一人の感染者が平均何人にうつすか示す指標であるという。素人の私には、市中感染が多発している(誰が誰にうつした、うつされたか分からない)現在、どういう計算式で算出するのか全く分からない。

数値の根拠を明らかにせよという声が多く発せられていることも確かである。

(そのうち、専門者会議と呼ばれる先生方から、説明があると期待しているのだが。)

「エビデンス」という言葉は、カタカナ語については今ひとつついては行けない私にとっても、なじみ深い言葉になったようである。

 

★「国難」は、「今でしょ」。
「伝えること」から離れるが、今の現状は、新型コロナウイルスの爆発的な流行により、世界が恐慌に陥っていることである。いのちが奪われ、奪われようとし、自ら感染するかも知れないという恐怖感を抱えながら、懸命に医療に従事している方々がいる。病院・老人介護施設等での集団感染、訪問介護等の現場では、3密を守っていては、仕事自体が出来ない人たちがいる。(平時でさえ、待遇等で人手不足の現実がある)。ヘルパーさんがいなければ、生活自体が破綻する介護を必要とする老人たちが沢山いる。(鋸南町:高齢化率 43.6%  全国平均 26.6% 2015年現在)。外出自粛要請により収入の道が閉ざされ、既に倒産した、倒産の危機を目前としている人たちがいる。収入の道を断たれた人がいる。学びの場を奪われている人がいる。アルバイトの道を断たれ、大学等を退学しなければならないと苦しんでいる人たちがいる。外出を自粛している人たちの中には、DV、虐待に苦しんでいる人たちがいる。枚挙に暇ない。(優雅な姿を発信した人もいるが。)
正しく「国難」である。危機感をあおり、「国難」を訴えて、国会を解散したことは、まだ記憶に新しい。「国難」は、「今でしょ」。

報道番組では、白鷗大学岡田晴恵教授「疲れてなんかいません。私は怒っているんです」「とっとと出してください」。インターパーク倉持呼吸器倉持仁院長「安倍総理には命をかけてやってもらいたい」。山梨大学学長島田眞路氏「日本の検査のレベルは途上国なみ」「PCR検査の不十分な体制は日本の恥である」等々。ノーベル賞を受賞した先生方も、発信しはじめた。危機感をあらわにしている専門家が多数いる。

「国民の安全と幸福」を守るために、今こそ、オール日本で、真剣に、1日もはやく、より適切な、具体的対策を講じて欲しいと願うばかりである。「恵む」でなく、私たちの税金を「主権者である」国民に有効に使って欲しいという声が上がっている。

 

★聞き慣れない言葉・・・「まえびろ(前広)
聞き慣れない言葉が飛び出した。「前広(まえびろ)」である。
2020年4月29日。衆院予算委員会。「9月入学制」に関する野党の質問に対して、安倍総理は、こう答弁した。
「これくらい大きな変化がある中では、まえびろ(前広)にさまざまな選択肢を検討したい」と。
これを聞いた国民の中には、「まえびろ」?ん?何のこと?と思った人がいるかも知れない。気にしなく、聞きながした人もいるだろう。それとも、「まえびろ」?これは官僚言葉で、「時間の余裕を持って検討する」という意味で、官僚が作った原稿をそのまま読んだんだな!と思った人がいるだろうか。私は聞きながしてしまった方だが、ネットで話題になっていたので、知ることとなった。

発声ではなくて、文字で「前広」と示されたらどうであろうか。浅学の私は、「前を広げて」とか、「前が広がっている」とかが思い浮かぶ。官僚がよく使う言葉だと知って、不謹慎ながら、これはもう、難解クイズ問題に出てきそうなんて不謹慎ながら思ってしまった。

分かりやすく、自分の言葉で、プロンプター(これも最近覚えた言葉。そういえば、かなり前に東京都愛宕山NHK放送博物館で実演したことがある。)に頼らず、国民に語りかけて欲しいという声が上がっているのも事実である。

 

★仏教用語も難解なものが多い。
漢文のお経。聞いていたら何が何やらさっぱり分からないというのが、一般の方々にとっては正直なところであろう。僧侶である私でも、他宗のお経になると、発声される単語のいくつかは分かるが、文脈の中で理解している訳ではない。
法話会やお寺の行事では、お経本を見ながらお勤めをする。目で字を追う、後で解説して意味するところを伝えようとしている。
お通夜や葬儀の時には、浄土真宗のご門徒以外の参列者も多いが、お経本を配り、一緒にお勤めをすることを心がけている。意訳が添えられているので、そちらに注目している人もいる。短い時間ではあっても、お話しさせていただいている。なるべく専門的な仏教語を使わないようにしているが、難しい。そんな時、印字した紙を提示して話すようにしている。例えば「冥福 めいふく」「法名 ほうみょう」「俱会一処 くえいっしょ」などである。いずれにしても、分かりやすく伝えることは、至難の業である。

 

★本願寺派のご門主の試み 正しく、わかりやすく
2018年(平成30年)11月23日に、本願寺派ご門主が、(前略)「先人の方々から受け継いだお念仏のみ教えを正しく、また、わかりやすく伝えていく責務があります。(中略)
 私はこのたび、この「念仏者の生き方」を皆さまにより親しみ、理解していただきたいという思いから、その肝要を「私たちのちかい」として、次の四カ条にまとめました。

一 自分の殻に閉じこもることなく
  穏やかな顔と優しい言葉を大切にします
  微笑み語りかける仏さまのように

一 むさぼり、いかり、おろかさに流されず
  しなやかな心と振る舞いを心がけます
  心安らかな仏さまのように

一 自分だけを大事にすることなく
  人と喜びや悲しみを分かち合います
  慈悲に満ちみちた仏さまのように

一 生かされていることに気づき
  日々に精一杯つとめます
  人びとの救いに尽くす仏さまのように

この「私たちのちかい」は、特に若い人の宗教離れが盛んに言われております今日、中学生や高校生、大学生をはじめとして、これまで仏教や浄土真宗のみ教えにあまり親しみのなかった方々にも、様々な機会で唱和していただきたいと思っております。そして、先人の方々が大切に受け継いでこられた浄土真宗のみ教えを、これからも広く伝えていくことが後に続く私たちの使命であることを心に刻み、お念仏申す道を歩んで参りましょう。
本日はようこそご参拝くださいました。
二〇一八(平成三十)年十一月二十三日
浄土真宗本願寺門主 大 谷 光 淳

と述べられました。

 

私たちのちかい

私たちのちかい2

私たちのちかい3

私たちのちかい4

 

★分かりやすい仏教語 道元禅師「空手還郷・眼横鼻直」
漢語で示された仏教語は、難解に見えて、実は分かりやすい言葉であることもある。
「空手還郷・眼横鼻直(くうしゅげんきょう がんのうびちょく)」。これは、曹洞宗を開かれた道元禅師のお言葉である。
24歳で中国に渡り、如浄禅師のもとで4年間修行をし、28歳で故郷に還り、発声した言葉がこれであるという。「手ぶらで故郷に還ってきた。ただ、目は横に鼻はまっ直ぐについている、ということを学んできた。」と。当たり前を当たり前と思えない私がここにいる。当たり前を有難いとも思わない私がここにいる。仏の教えの肝要をお示しくだされたお言葉であると自分なりに想い、大切にしている言葉である。

漢字も元はといえば、中国からの外来語。カタカナ語も、欧米からの外来語。長い年月を経て、定着してきている言語は、私の想いを伝えるツールとして、いかに活用していくかが問われている。新しく出てくるカタカナ語も、私のように、先入観をもって無視することなく、理解してみれば、それなりに味わい深い言葉になると思う。

 

道元禅師「空手還郷・眼横鼻直」

 

言葉を飾ることはない。

わざわざ難しい言葉を列挙して煙に巻くことはない。

誤魔化そうと駄弁を弄することはない。

ただひたすら、自分の想いを正確に、誠実に伝えようとする心が大切である。

相手を思いやる心を持って。

心がけていきたい。