親鸞聖人のご生涯

親鸞聖人のご生涯  2018.2.12更新

1 得度

親鸞聖人は、承安3年4月1日(旧暦)、現在の暦では1173年5月21日、京都日野の里で誕生され、幼名を松若丸と言いました。幼くして両親と別れられ、また源氏と平氏が相争う世情に世の無常を感じられて、全ての人びとが救われる道を求めるために、わずか9歳の身で東山の青蓮院において出家・得度されました。

 

   明日ありと 思う心のあだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかわ

2 自力修行
 名前を範宴と改められた聖人は、比叡山に登り常行堂の堂僧(注1)として、20年間の厳しい戒律・修行と勉学に励まれました。しかしながら、煩悩を断じて悟りを開く自力修行を積めば積む程、聖とはほど遠いあさましい心のすがたが目立つばかりで、人間の苦悩の解決はできませんでした。そこで万人が救われる真実の道を求めて、29歳の時に山を降りられました。
定水を凝らすといえども 識浪頻りに動き 心月を観ずといえども 妄雲なお覆う(歎徳文)

3 法然聖人との出遇い
 悩みぬかれた聖人は、1207年(建仁元)六角堂に籠もられ、そこで聖徳太子のお示しに導かれて吉水の法然聖人(当時69歳)を訪ねられました。法然聖人から「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」とお聞きし、この人とならたとえ地獄へ落ちても後悔しないと言い切って、生涯の師とされました。
          たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、
                        さらに後悔すべからず候う(歎異抄 第2章)
          それ真実の教を顕わさば、すなわち大無量寿経これなり(教行信証 教巻)

4 流罪
 他力念仏の教えは、天災地変や源平の争いなどで世の無常と人生の不安を感じた民衆に広く信じられていきました。
 しかし、そのために他の宗派(天台・真言・奈良仏教)の間から妬みや非難が強くなり、比叡山衆徒の念仏禁止の訴えに、法然聖人は、1204年七箇条起請文を提出。これに親鸞聖人「僧綽空」(32歳)と署名する。その後、聖人は「善信 ぜんしん」と名のる。しかしながら、朝廷は、承元元年(1207)、法然教団に対する念仏禁止の弾圧を敢行し、4名を死罪、7名を流罪とした。朝廷は、聖人の僧籍を剥奪し、藤井善信(よしざね 35歳)と姓名を与え還俗させ、越後(新潟県)へ流罪としました。(法然聖人は、土佐へ流罪)
          主上臣下、法に背き義に違し、いかりを成し怨みを結ぶ。(教行信証 後序)

5 越後
 聖人は、この流罪を契機として愚禿釈親鸞(ぐとくしゃくしんらん)と名のり、恵信尼さまと結婚して、ご一緒に民衆の中に深く入って、お念仏の教えを伝えられました。流罪から5年を経過して、聖人は罪を赦されましたが、2年後の42歳の頃、妻子をともなって関東の常陸(茨城県)へ向かわれました。
あれは観音にてわたらせたまふぞかし。あれこそ善信の御房(親鸞)よと・・・(恵心尼消息)
  非僧非俗 愚禿釈親鸞の名のり(注2・3) 妻帯(仏教各宗派中唯一公式に)(注4)

6 立教開宗
 聖人は、下妻・小島・稲田などに往んで、20年にわたってお念仏の
教えを伝えられました。聖人52歳の時、稲田の草庵で書き始められた『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)は、浄土真宗の根本聖典として不滅の光を放ち、この元仁元年(1224)を立教開宗の年と定めています。
      ひそかにおもんみれば 難思の弘誓は難度海を度する大船、                無碍の光明は無明の闇を破する惠日なり(教行信証 総序)

7 帰洛
 聖人は、62、3歳の頃、家族を連れて京都へ帰られました。京都では、幕府による念仏禁止が続き、表立った教化もできにくく、住居も定まらないまま、後の世の人びとのためにひたすら著述に励まれ、わかり易い和文の『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』などを著されました。
               おのおの十余ケ国のさかいをこえて、
                  身命ををかえりみずしてたずね・・(歎異抄 第2章)

8 晩年
 聖人は帰洛の後も、関東のお同行(注6)に対して、お手紙で念仏生活のありかたや教義を説かれました。また、かわるがわる関東から訪ねてくるお同行には、親しく面接されました。しかし、晩年にはわが子の善鸞を義絶するという悲しい出来事もありました。84歳の聖人にとって、誠に断腸の思いであったことでしょう。
            善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
                  しかるを世のひとつねに・・・(歎異抄 第3章)

9 往生
 弘長2年11月28日(旧暦)、現在の暦では1263年1月16日、善法院(現在の角坊別院)において、聖人はお念仏のうちにお浄土へ往生されました。
 90年に及ぶご生涯は、まさに苦難の道でした。しかし、弥陀の本願を信じ念仏に生かされることによって、それがそのまま真実の白道であったのです。
    仲冬下旬の候より、いささか不例の気まします。(中略)
     午の時、頭北面西右脇に臥したまひて、つひに念仏の息たえをわりぬ。(御伝鈔 下巻)

10 大谷本廟
 親鸞聖人の遺骸は荼毘にふされ、鳥辺野の北、大谷に埋葬されましたが、10年後に末娘である覚信尼さまの屋敷内に六角のお堂を建て、そこにお墓を移しました。このお堂を「大谷本廟」といい、その後、本願寺へと発展していく礎となりました。

(注1)常行堂の堂僧                       
90日間を期限とし、口に阿弥陀仏の名を称え、心には阿弥陀仏の姿を念じ、身は堂の中で阿弥陀仏の像の周りを一時の休息もなく廻り続けるという厳しい修行。
(注2)しかれば、すでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに禿の字をもって姓となす
 僧に非ず・・・・国家の繁栄を願う僧にあらず
 俗に非ず・・・・世俗に迎合する「俗」でもない
 愚禿・・・・・・禿は外見は僧の姿であっても、心と行いにおいては俗人と少しも変わらな         い、あさましい人間であるということを示しています。
(注3)釋親鸞・・第二祖天親菩薩の「親」、第三祖曇鸞大師の「鸞」の字をとられたもの。
(注4)肉食妻帯・・・・出家僧は、肉を食し,妻をめとることを戒律できびしく禁じられている。聖人は妻をめとることをみずから公にし,阿弥陀仏の救済をひたすら信じた。それは、山にこもって修行している人も、生きる為に仕事をしている人も、男も女も、老いも若きも、一切の差別なく、すべての人が、 本当の幸せになれる道を教えられたのが、本当の仏教であることを明らかにするためでした。(明治以降、浄土真宗の僧侶以外でも肉食妻帯が許可?された。)
(注5)お同行・・・・・御同朋・御同行(おんどうぼう・おんどうぎょう) 聖人にとってお念仏をよろこぶ人は、同じ往生浄土の道を歩む友。「親鸞は弟子一人ももたず候」(歎異抄第六章)