私たちのちかい4「生かされていることに気づき」

2019年11月1日(金)

浄土真宗本願寺派慈光山最誓寺住職堀田了正

 

私たちのちかい4

四 生かされていることに気づき
  日々に精一杯つとめます
  人びとの救いに尽くす仏さまのように

■「生かされていることに気づき」
「私たちのちかい」の四番目の「生かされている・・・」という言葉を見た時、まず第一に思ったことは、「日本のヘレン・ケラー」と讃えられた中村久子さんの次のことばでした。
「手足のないわたしが、今日まで生きられたのは、母のお陰です。生きてきたのではない、生かされてきたのだと、ただただ合掌あるのみです」と。
この言葉は、昭和37年、NHKラジオの”人生読本”で放送された中村久子さんの「御恩」という話の中で話された言葉だそうです。
『中村久子自伝 こころの手足』中村久子著 春秋社発行 巻末(p242~p243)の解説の中で、瀬上敏雄氏が紹介していました。
中村久子さんについては、皆さんご存じのことと思います。
2歳の時、足のしもやけがもとで突発性脱疽となり、ついに両手両足を失った中村久子さんは、その障害を乗り越えて、人生に絶望のないことを身をもって示され、多くの人々に生きる勇気を与えられました。

次女の中村富子さんが、中村久子さんの思い出を『わが母 中村久子』(春秋社発行)に綴られています。
その著書の中で富子さんが、母について次のように述べられています。

母は、「歎異抄」をはじめ、善き書物に出会い、ずっと無の世界を教えていただいたように思っておりました。
その母が、無の世界から有の世界を見いだしました。
無いと思って悲しむよりも、有ると知ったときの歓びは、とても大きく、こころ豊かになりました。
 手も肘から先が無いのではない。
 肘から上が有るではないか。
 足も膝から下、無いのではない。
 膝から上、有るではないか。
 もろもろのもの、これだけしか無いのではなく、これだけ有るではないか・・・と。
発想の有る無いの違いで、こんなにもこころ豊かになっていく。
母は、そのうれしさを詩に託しました。

生まれて,
  生きて,
   生かされて・・・

1937(昭和12)年4月、久子さん41歳の時、東京日比谷公会堂で、岩橋武夫氏(ヘレン=ケラーさんを日本にまねき,日本盲人会連合などの結成や,身体障害者福祉法の制定につくされました。)の紹介で、三重苦の聖母と敬慕されるヘレン・ケラーさんと会いました。
「目も見えない。耳も聞こえない。声を出すこともできない。」そういう状態で、その困難を乗り越えて世界各地を歴訪し、障害者の教育・福祉の発展に尽くしました。本当に奇跡の人ですし、偉大な人です。

ヘレン・ケラーさんと会った時、久子さんが口で作った日本人形を贈ったのです。ヘレン・ケラーさんは、久子さんを”私より不幸な、そして偉大な人”と久子さんを讃える言葉を贈ったそうでした。

中村久子さんは、その生涯をかけて”いかされている”いのちに感謝しながら、昭和43年春彼岸の3月19日、72年間の人生を高山市の自宅で閉じられました。法名 普行院釋尼妙信。

以前、最誓寺法話会で、中村久子さんの生涯を学んだことを思い出しました。
資料を探してみましたら、2009年(平成21年)の最誓寺報「慈光」にありました。
最誓寺では毎年テーマを決めて、学びを深めています。
そして、12月の法話会では、そのテーマにそった「公開文化講演会」を開催することにしていました。
法話会資料を見てみますと、日本のヘレンケラーと讃えられた「中村久子」さんの生き方をとおして,生きることの意義を学んでいきましょう!とありました。
そして、2010年1月の「慈光」に講演会の報告として、次のような記載がありました。
紹介させていただきます。

「最誓寺 第4回 公開文化講演会」開催される!

 手足なき身にしあれども生かさるる
          いまの命は尊かりけり (中村久子)
   
2009年12月6日(日)に開催された,最誓寺主催第4回公開文化講演会は,最誓寺会館も満杯になる103名の方々にご参加いただき,有意義な講演会になりましたこと,心からありがたく,感謝申し上げます。
中村久子さんの次女,中村富子先生による講演会の演題は,「ある ある ある ~我が母 久子のおもい」。86歳の高齢を押して,飛騨高山から駆けつけての1時間45分間でした。
 聴講された方々も皆,中村富子先生のお話に大きな感銘を受け,自らの生き方を問い直すよい機会であったと申されておりました。「ネパールみすゞ基金」募金活動にもご協力いただき,募金総額49,702円の浄財をいただきました。

中村富子さんは、母久子さんについて、エピソードを語られました。いくつか紹介いたしましょう。
★「わたしは,母の生きざまを見てまいりました。本当に明るくて,厳しくて,やさしくて,涙もろくて,怒りがちで,色々の面をもっている普通の人でした。」
★「大きくなるまで私は,母が障害をもっているとは思いませんでした。なぜかというと,母は,何でも私より早く出来る人だったからです。裁縫,編み物,お習字,お掃除,ご飯の支度等々」
★「高山高女のとき,友だちの一人が母の悪口を言ったので,私が家までどなりこんで行きました。そしたら,友だちのお母さんが出て来て,事情を聞き”富ちゃんのお母さんの悪口を言うのは,あなたが悪い”と言って,おばさんも一緒になって謝ってくれました。」
★「高山高女の新任の先生が,私が反抗するのに困って母に手紙を出されました。母は朝鮮の釜山から三日かけて駆けつけてくれました。私が職員応接室に呼ばれ行ってみると,母が”富子、元気”と聞いてくれました。そして、”頑張るのね”と一言。先生が目を泣きはらして,”富ちゃんごめんね,先生は知らなかった”と言ってくれました。その時母は、ひたすら先生の言葉を聞いて”わかりました。今後こういうことはないと思います。ありがとうございました”と頭を下げたそうです。」
★母は,手も足もない身体で,一人で駆けつけてくれました。トイレが一番大変なことですが,食べたり呑んだりすることを控えてやってきました。私が,なんで一人で来たのと聞くと,”あなたのことで,ほかの人に迷惑を掛けれない”と言いました。」
★「”母さんは子どもの時分にトイレの我慢をさせられた。したくてもできなかった。連れて行ってもらえなかった。その時の我慢が今ここでお前の役に立つとは思はなかった。”そう言って笑ってくれたんです。」

浄土真宗本願寺派(西本願寺)では、「食事の言葉」として食前・食後に下記の言葉を述べます。この言葉にも、多くのいのちの犠牲によらなければこの私の命を保つことはできず、「生かされている」こと、「御恩に感謝するこころ」が表されています。日頃忘れがちなこころを、食事の度に思い起こさせていただくことは、大変大事なことではないでしょうか。