先日U様のご法事を営みました。
昨夜来の大雨が上がり、晴れ間の見えるお天気になりました。
おそらく施主様は、雨が上がりほっとしていたことでしょう。良い天気になりよかったと、参列された方々の多くが思われたことでしょう。
この「晴れて良い天気」と言う言葉について、以前聞いたことがありました。
浄土真宗本願寺派の僧侶で、雪山隆弘氏が、富山でラジオのニュースキャスターをしていた時のこと。気象台の方と電話でやりとりするコーナーがあって、そこで、気象台の方がこうおっしゃったそうである。
「実は、お天気には、いいとか、わるいとかはないんですよ。晴れていれば晴れた日、雨なら雨の日というだけで、わたしたちはなるべく、良い天気、悪い天気とは使わないようにしているんです。」と。
なるほど、いわれてみれば頷ける言葉である。天気自体に良い悪いがあるわけではない。「私にとって」都合が良ければ「良い」、都合が悪ければ「悪い」ということなのである。
農家の方を例にとってみるとよく分かる。稲の苗を植えてからしばらくの間、雨は「恵みの雨=良い雨」となります。刈り取り、天日干しの頃の雨は、それこそ「願わない雨=悪い雨」となるでしょう。(実際の水雨の管理は、複雑のようです。)
人間は、どうしても自分の尺度を持って、「いい・わるい」を決めてしまうものだと、再確認した次第である。
良い、悪いは、「自分にとっては」と、自分中心に思っているに過ぎず、「あなたにとっては」違った想いがあるのでしょう。
こう考えてみると、これから私は「明日は良いお天気になるでしょう」とは言わないようにと。
古歌に
「手を打てば 鳥は飛び立つ 鯉は寄る 女中茶を持つ 猿沢の池」
とある。
「猿沢の池」とは、あの奈良・興福寺(国宝・阿修羅像でも有名)のほとりに佇む池である。興福寺は、法相宗の大本山であり唯識を学ぶ寺院である。
その唯識の考えの一つに「一水四見(いっすいしけん)」という言葉がある。
認識の主体が変われば認識の対象も変化することの例えである。
人間は「水」
魚は「住まい」
天人は「宝石の池」
餓鬼は「膿(うみ)で満ちた河」
に見えるということである。
このように見る者によって、同じ「水」でも色々な見え方があると示す言葉が、「一水四見」である。
先ほどのお天気の良し悪しはさておいて、これが「善悪」の問題となると、どう考えたら良いのでしょうか。
親鸞聖人は、ご和讃(正像末和讃 しょうぞうまつわさん)に
よしあしの文字をもしらぬひとはみな
まことのこころなりけるを
善悪の字しりがほは
おほそらごとのかたちなり
と、お示しになられています。
(よしあしという文字を知らない人はみな、真実の心を持った人です。善悪の文字を知ったかぶりして使うのは、かえって大嘘の姿をしているのです。)
親鸞聖人のこのお言葉をいただくと、この私は、「善悪の字しりがほ」なのであると、知らされる次第である。