世間の常識と門徒

2020年7月1日

 

2020年 門信徒だより                2020年7月 1日(水)
                          慈 光(じこう)  

第8回 南ブロック連続研修会 !
    平成21年6月7日(日)13時~ 福田寺にて

6月
  ⑧世間の常識と門徒

 

■2020年6月15日最誓寺HP:「あまびえ」とコロナで
「因縁果の道理」について述べました。
かつて、この「因縁果の道理」について、研修会でお話したことを思いだし、その資料を探したところ、千葉組(千葉県の本願寺派寺院で組織)南ブロック連続研修会(平成21年6月7日(日)の講師で話した時の資料がありましたので、ご紹介したいと思います。(加除)

 

◆「門徒もの知らず」といわれるが,どういうことですか?
■「門徒もの忌(い)まず」という言葉が転じて,「門徒もの知らず」という言葉になりました。
「物忌み」というのは、今ふうに言えば「迷信」のことですから、「物忌み知らず」というのは、「迷信にとらわれない」ということです。ですが、現実問題として、門徒のあいだにも「物忌み」をする人がいないとはいえないでしょう。
真実の教えに導かれ生活している門徒は、「迷信・俗信」にとらわれない生き方を本分としています。※ 忌む=けがれを避けて慎むこと。仏教では言わない。
今日は、「世間の常識と門徒」と題し、仏教で説く「因縁果の道理」に基づいて、どう生きていくかの指針を考えていきたいと思います。

★仏教は,因縁果の道理を仏の正しい智慧として教える宗教です。
物事には,直接の原因(因・いん)があり→そこに間接の原因(縁・えん)がはたらき→結果(果・か)が生じるという縁起の道理を説く教えです。
したがって,仏教では因縁果の道理で説明できないことは,迷信であり,それに惑わされて悩む生き方を厳しく戒めています。

■世間の常識・・・・・  ハテナ?いろいろ!
◆身近にある迷信や俗習について考えてみよう!
世間の常識といわれるものの中には,仏教・浄土真宗の教えから見て,ちょっとおかしいな?と思われることが結構あるものです。
今日は,これら「世間の常識」といわれているものを、私たちの身の回りから拾い出し,門徒として,私はどうあったらよいのかを話し合ってみましょう。

★忌み数、数字の語呂合わせ!を気にしていませんか?
●4=死(ホテル・病院等で避ける)?
(私大学時代を、京都の龍谷大学で学びました。京都四条通りは、繁華街でした。4人家族もいるでしょうし、自動車のタイヤは4つ、机の足も4本、私の可愛い猫ちゃん達も4本足なのです。)
●9=苦
(「馬九行久」という言葉があるそうです。これは、「うまくいく」と読み、そのままで「万事何事も上手くいく」ということになります。)
●49=四十九日の法要は、三月にまたがらないように勤める。始終苦(49)が身(3)につく(月)?
(よくなるという読み方もありますね。)
●13=13階段、13日の金曜日、ゴルゴ13
(13は不吉?アメリカ合衆国最初の独立州は確か13だった。)
等・・・忌み数は、国によっても違いがあるようです。

毎日新聞2005年(平成17年)4月4日(月曜日)

心が癒やされる「世界の笑顔」

大学生 25歳 男性 北九州市

 本紙朝刊「世界の笑顔」を楽しみにしている。世界中の人々の笑顔が毎日、自分の心を癒やしてくれるような気がするからである。文化や言葉の壁があっても、笑顔には国境がないと痛感する。

 「笑顔とあいさつは先手必勝」とは、私の大学の恩師の言葉だ。私が毎日、最も気を払っていることは、常に笑顔で人と接することである。どんなに疲れていても、腹の立つことがあっても、笑顔で人と接すると、相手から笑顔を返され、結果的に自分が癒やされていることに気づく。

 今春から福祉施設で勤務する。常に笑顔で仲間や利用者と接するように心がけたい。

 

毎日新聞2005年(平成17年)4月20日(水曜日)

4を死でなく4合わせに

無職 78歳 女性 下関市

 朝の片づけを終え、いつものように本欄を読んでいると、良い言葉が目に留まった。「笑顔とあいさつは先手必勝」。大学を出て、今春から福祉の仕事をされる方とのこと。早速ノートに記録した。日付を4月4日と書いて、ふと何十年も前のことがよみがえった。

 そのころの電話は電話交換手がいて、外にかける時は〇〇番にと口頭で依頼、かかってくる時は〇〇番と呼んでくれた。私の家に弟が来ている時、知人が訪ねてきた。その人の番号は、44の4番で、雑談の中で4が重なることを気にしていた。弟が「4を死につなげないで、4合わせ(幸せ)とつなげては」と話したら、喜んでいた。今日も4が二つ。良い言葉を書かれ、感動を下さった方を思いながら、良い一日になりそうなとペンをとりました。

 

毎日新聞2005年(平成17年)5月2日(日曜日)

「4合わせが九る」

主婦 62歳 女性 長岡市

 4月20日本欄「4を死でなく4合わせに」を読んで、私は20年前の息子の高校受験の番号を思い出しました。

 息子が渡された受験票が94番だったのです。息子は「おれ、もうだめだよ。落ちるよ」と言ったのです。どうしてと聞くと「だって九るしんで(苦しんで)4ぬ(死ぬ)だから」とガッカリしていました。

 それを聞いて、私も内心ショックでした。どうしたら自信をつけられぬかと焦りました。その時、思いついて「4合わせ(幸せ)が九る(来る)で最高じゃない。合格するよ」と逆から読んで、苦しまぎれに言ったのです。息子は「アー、そういう考え方もあるのか」と安心したようでした。

 無事、希望校に合格しましたが、言葉は考えようで、いくらでもよい方に解釈すればできるのだと思いました。

 

★葬儀に関わる迷信!を気にしますか?
守り刀・死装束・六文銭・一膳飯・出棺の時、お棺に釘を打つ、使っていた茶碗を割る、清め塩、火葬場の往復の道順を変える、友引、仏滅・・・・?
これらの内、今でも行われているものの代表は、「清め塩」「火葬場の往復の道順を変える」「友引」「仏滅」でしょう。

 

■清め塩で何を清める?
葬儀の時に,塩をまいたり,会葬者に清め塩を配ったりする風習は,仏教の教えと何のかかわりもない民間伝承です。
●塩の防腐効果→まじないへ

 

塩は,体重の0,7%を占めるるほど,人が生きていくために必要なものです。また,防腐効果もあります。この防腐効果を呪術(まじないや祈祷)的に用いたのが「清め塩」の原理でした。つまり,死体を塩漬けにすれば腐敗を防げるという効果がまじないとして残ったのです。
だとすれば,塩をまくなら死体そのものにしなければならないのですが,これを会葬者に向かってまいたり,小袋に入れて配ったりするところに,何の意味があるのか理解に苦しみます。

●四日市仏教会の表明!
良くない習慣は廃止へ
「『清め塩』や、『友引』に葬儀を行わない習慣は、仏教の教えと関係ないとして、四日市仏教会は決議をした」と、1998年5月26日付け読売新聞に掲載されています。
この記事によると、「死者はけがれたものとするのは、誤った考えにつながる」とし、今後、伝統仏教が行政当局や葬儀社などに対し、「習慣を改めるように働きかけていきます」と、一致して表明しました。決議後、配られた文書では、「仏教における葬儀式では清め塩は使いません。友引にとらわれることもありません」と、明記されました。その理由として「生前、父母よ友よと親しんでいた方が、亡くなられた途端、『清め塩』を用いる」ことや、「亡き人が友を引くのではないか、という不安から『友引』の字面を忌み嫌うのは、亡くなった人をけがれた物とする考え」と、指摘しました。「都合の悪いことは遠くへ追いやろうとする、自分中心の心が『清め塩』『友引』の迷信を生んだ」と、しています。

●浄土真宗以外の仏教各宗派も一致して表明!
葬儀にキヨメの塩を用いることは,亡くなった人の尊厳性を奪うことになります。
浄土真宗のご門徒の葬儀では、葬儀社によっては、葬祭場の受付に、「この葬儀は、浄土真宗の教えにもとづいて行われます。したがって、清め塩は使いません。」との表示がなされることがあります。
四日市仏教会の声明は、「清め塩」を使用しないのは、浄土真宗の専売特許ではないことを示す画期的な出来事であると歓迎します。

■A葬儀社が配っているチラシ!

 

 浄土真宗では「清め塩」を用いません

                                        

 清め塩の由来は、人間の持つ「死」への恐れから「死」を不浄なものとしてとらえ、それを自分から遠ざけようとする思いから生じたと考えられます。

 不浄(死のケガレ)を清める為に塩を用いるというわけです。

それは、人間としての終着駅は、仏としての始発駅であるとして、「死」を仏としての新たなる誕生「往生」としてとらえるからです。 また、清め塩をまくということは、生前親しんだ家族や友人達を死を迎えた途端に不浄な存在として扱うことにもつながってしまいます。「死」は誰しもが決して逃れることが出来ない問題です。

 私も例外ではありません。ですから浄土真宗では清め塩を必要としないのです。

 

※ここで、「清め塩」について、「浄土真宗では」と但し書きがついていることがちょっと気になるのですが。(「仏教では」とならないのは?)

【参考】■古事記に見られる
        ケガレ・清め・みそぎの考え?

 国生みの神話で語られる伊邪那岐神(イザナキノカミ)と伊邪那美神(イザナミノカミ)の話は大変興味深い。
 イザナミが火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)という火の神様を産んだときの火傷がもとで世を去った。イザナキは,イザナミに会いたくて黄泉の国へ追いかけていった。出迎えたイザナミにイザナキは,国造りがまだ終わっていないので一緒に帰ろうと誘った。黄泉の国の神々に相談する間,私の姿を見てはいけないといって御殿の中に戻ったイザナミを,待ちきれなくなったイザナキが御殿の中に入り見てしまった。腐敗が進み,数えきれないほどのウジ虫がたかっていたその姿に,驚き怖れて逃げ出しにかかったイザナキをイザナミは,「よくも恥をかかせたな」と怒り,黄泉の国の軍勢を使わし追いかけさせた。最後に追いかけてきたイザナミは,「いとしい夫がこんなひどい仕打ちをするなら,一日に千人絞め殺す」と言い,イザナキは,「そうするなら私は,一日に必ず千五百の産屋を建てる」と言った。やっとの思いで帰り着いたイザナキは,「私は,何とも穢らわしい国に行って来たものだ。この身の禊ぎ(注)をしなければならない」と言い,身につけていたものを脱ぎ捨て,川の水で身を洗い清めた。(左目を洗った時に生まれた神が,天照大御神)
(注 禊ぎ=心身の罪や穢れを水で清める宗教儀礼のこと。水に浄化作用があると信じられていた。)
 腐敗の進んだ姿に恐怖するという日本神話(古事記)に代表されるように,我が国には,死体の腐敗に対する恐怖心と,それを忌み嫌う風習が伝えられてきました。
 たとえば,人が亡くなったら神棚に白い紙を貼って覆い隠すのは,神様は死穢(しえ・死体の腐敗による穢れ)を嫌うからです。塩をまく習俗も,そうした中から出てきたものと考えられます。
 ※仏教の考え方との大きな違いを考えてみましょう。)

●火葬場から帰る時、来た道と違う場所を通る?
死者がまた戻ってこないように、違う道をとってわからないようにする、という迷信です。
死者が戻ってこないようにというまじないは、他に、棺をグルグルと水平に回す(見られなくなった)、故人の茶碗を割る風習(片平なぎささん主演の「赤い霊柩車」でお馴染み)があります。
右京さんのように「細かいことが気になるんです。」
私はいつも「行き帰りの道を変える」ということを考える時に、お盆の行事のことを思います。
葬儀の時には、ご先祖を道を変えて迷わせ、新盆には盆棚をお飾りしてご先祖をお迎えするのはどういうことなのだろうかと。

●大安吉日?、友引(本来は共引き)、仏滅(本来は物滅)?
「忌み数」「清め塩」・・・の他、「六曜」の問題があります。
六曜(ろくよう)は、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の6種の曜がある。
日本では、一般のカレンダーや手帳にも記載されている。
明治政府は、「六曜」は迷信であるとして、公の暦に書き入れることを禁止した。
しかし、今日の日本において影響力があり、「結婚式は大安がよい」「葬式は友引を避ける」など、主に冠婚葬祭などの儀式と結びついて使用されている。

「大安」や「仏滅」は大昔からあったように錯覚されておりますが、これが日本で流行しだすのは明治10年代のことです。これが大きな迷信であることは、ちょっと頭を冷やして考えればすぐに分かることです。たとえば、ほとんどの結婚式が「大安」を選んで行なわれていますが、必ずしもその全ての夫婦が幸せになっているとは限らないでしょう。毎年十数万組もの夫婦が離婚しているのですからね。(離婚が全て不幸せとはいえないですが)
同じく、「先勝(せんしょう」は、早くことを済ませてしまうことが良いとされる日。「先んずれば即ち勝つ」の意味。午前は吉、午後は凶と言われる。急用の処理や訴訟には吉日とされている。「先負(せんぶ)」に対応する。ちょっと考えれば分かるように、訴訟は相手がいる訳ですよね。どちらが勝つのでしょうか。あくまで私を中心に考えている、仏教で誡めている,自己中心的な考えですね。

●友引は、本来「共引」で、共に引き合い(相打ち、引分けで)勝負なし、良くも悪くもない日の意。
友が冥土に引き寄せられる(=死ぬ)との意味に転用され、葬儀・火葬を避けるようになっている。

●仏滅は、本来「物滅」で、大凶日とされ、婚礼や祝い事を避けるようになっている。
仏滅の「仏」は、仏教とは全く関係がない。

■やはりおかしい!
門徒として,この問題をどう考えるか?
清め塩にしても,友引にしても,現実の生活の中に深く浸透しており,気にする人が多いようです。
連続研修会や法話会・葬儀等の機会での聴聞で,意識改革が進んできています。
しかし,他宗の人も参列する葬儀等の場合,周囲の人たちの目を気遣って「皆が嫌がっていること(友引の日に葬儀等を行う等)を無理にしなくても・・・・」と言われるかもしれません。が,これも一見筋が通っているようで,心情的にも分からないでもありませんが,よくよく考えるとやはりおかしいと言えます。
つまり,極端に言えば,たとえ間違っていると思っても,「皆がするから自分もする」という理屈になります。すなわち,自らの意志判断の放棄です。

■主体性をもとう!
ですから「清め塩・友引」等の迷信・俗習を気にする人がいれば,むしろ,気にする必要がないことを説き,安心させてあげるくらいの積極的な姿勢をもつことが必要なのではないでしょうか。
何の根拠もないことに身を煩わせ,振り回されるのではなく,しっかりとした主体性をもって人生を歩む、その精神的基盤となるのが仏教であり,お念仏なのです。

■親鸞聖人の和讃から

 

かなしきかなや道俗の
良時・吉日えらばしめ
天神・地祇をあがめつつ
卜占祭祀つとめとす
親鸞聖人 正像末和讃


「かなしいことには,僧侶も僧侶でないものも皆,仏教徒でありながら日や時刻の善し悪しを気にしたり,天地の神々をあがめたり,卜占(ぼくせん=うらない)や祭祀(さいし=まつり)に憂き身をついやしている。」

この和讃に見られる親鸞聖人の深い悲嘆は,仏教徒の仏教徒らしくないあり方,つまり神祇を拝し,日の吉凶を選び,卜占や祭祀に心奪われている生き方への鋭い反省を促しています。
私たちは,今科学の時代に生き,何事も科学的に考えて納得できないことは非科学的として退ける一方で,日の吉凶を気にし,姓名判断や運勢に強い関心を持ち,語呂合わせの迷信にとらわれています。
しかし,これら因縁果の道理にそぐわないことを気にせず,忌み嫌うことなく,良い結果を得るような原因や縁を作る努力をすることの方が,はるかに重要であることを忘れてはならないでしょう。

 

■福沢諭吉の生き方から!
浄土真宗のみ教えに深く帰依した母親のもとで育った福沢諭吉翁が書かれた自伝である福翁自伝(ふくおうじでん)を読むと,迷信・俗信について示唆に富んだ話が載っています。
★殿様の名前を踏んだ?
諭吉が子どもの頃,お兄さんが習字をしていて,お殿様の名前を書いた紙が畳の上に置いてあった。
諭吉がついうっかりそれを踏むと,お兄さんが何というバチ当たりなことをするんだと怒った。諭吉は兄の怒りがどうしても理解ができず,密かにそれを改めて踏んづけてみて,本当にバチが当たるかどうか試してみたということです。

★お稲荷さんの祠?
また,自分の屋敷内に小さなお稲荷さんの祠があって,中を開けてみると,ご神体は丸い川石だった。そこでご神体を放りだして,よく似た川石をもってきて中に入れておいたんだけども,バチが当たるかと思ったらバチは当たらなかった。みんなはそれを知らずに一生懸命に拝んでいるのでおかしかった,と書いています。

江戸末期の子どもとしては,迷信・俗習にとらわれない生き方をしているんだなと,感心させられますね。

■ケガレって何?
●死、出産、月経が穢(けが)れで、神様が嫌うって?
死や出産・月経をケガレとして,ケガレを祓いキヨメようとする気持ちや物忌みの考え方は,一般民衆よりも,平安時代の中央の朝廷や貴族の中に強かったとされています。
彼らは,死や血というケガレが,火や水を媒介して,近親者や他人に伝染していき,病気や死を及ぼすと考えました。
朝廷は神祇祭祀をとどこおりなく行うためにも,「神祇令(じんぎれい)」や「延喜式(えんぎしき)」などの法令を作り,ケガレを封じ込める必要がありました。
法令には,死亡や出産の場合に近親者が喪(も)に服して,謹慎する期間が細かく制定されています。中世以降,江戸時代までにはこうしたケガレの観念や物忌みの考え方が民衆の間にも広がっていきました。
今日では法令によって制定されたケガレということはありません。しかし,死をケガレとみる感情は,葬儀の後にキヨメの塩を用いたり,喪中欠礼の葉書などに形を変えて存在しています。

■3つの穢れって
穢れには、3不浄=黒不浄(死の穢れ)白不浄(出産の穢れ)赤不浄(月経=血の穢れ)の3つがあるとされています。
神道についてはよく分かりませんが、黒不浄は死を穢れとして扱う時の呼び名で、白不浄というのは出産のことで、赤不浄は月経(女性の生理)で、神様はこれらを嫌うのだとか。
出産や月経は、私の生存に深く関わっているのに、なぜ不浄なのか、穢れを清めなくてはならないのか、色々調べてみましたが、結局の所、私には理解できませんでした。
インドの宗教である「バラモン教:カースト制度で知られている」に関係があるという説があるようですが。

伝記「古事記」に出てくる伊勢神宮の内宮に祀られている神の天照大御神(アマテラスオミカミ)は女性であり、皇室(天皇家)の祖神・皇祖神(こうそしん)として崇められています。邪馬台国(やまたいこく)の女王である卑弥呼も女性です。推古天皇など実在した8人の女帝もいて、何時から、何の理由で、女性を穢れとして忌み嫌うことになったか、知りたいところです。
(歴史上、8人の女性天皇がいたんですね。)

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

■いのちの尊厳を否定し,差別意識を助長する迷信!
すでに法然上人は,こうした死のケガレ,出産のケガレ,血のケガレに対して,「仏教には,忌みということはない」と,ケガレということを徹底して否定されています。
また,蓮如上人の頃,他の宗派の人々は,浄土真宗のことを「をかしくきたなき宗」といいました。それは,念仏者が,死や出産や血などをケガレとして忌みさけることがなかったからです。(仏教として当然のことでしたが)
私たちにとって死は必然ですし,出産がなければいまの私はありません。その意味で,死や出産・血は決して非日常的なことではなく,私たちの日常生活そのものです。仏教は,生老病死の現実を直視することから始まります。
葬儀は,亡くなった人をケガレたものとして畏怖(いふ)するのではなく,敬い,仏恩を感謝し,自己の死についても思いをめぐらせる場となります。