7月法話会
千葉県 浄土真宗本願寺派 最誓寺住職 堀田了正
お盆の由来と、浄土真宗のお盆について
7月31日(日)13:00~14:45
正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」草譜を皆でお勤めした後、今回は、お盆月ということもあり、お盆(盂蘭盆会:うらぼんえ)の由来と浄土真宗のお盆(浄土真宗では、歓喜会:かんぎえ とよぶ)について学びました。
お盆といえば、一般的には、地獄の釜の蓋(ふた)が開いて、先祖の霊が帰って来る日とされ、迎え火で迎え、送り火で故人の霊を送るのが風習となっています。
お盆になると、この地域では、精霊棚を設け、盆提灯を飾り、精霊馬(ナスやキュウリを動物に見立てたもの)を用意したり、灯籠流しを行ったりと、先祖供養のお盆の行事が行われます。
しかし、浄土真宗では、このようなことは一切必要が無いといいます。なぜなのでしょうか?
今日は、お盆の由来と、浄土真宗のお盆について学びたいと思います。
ポイント
※浄土真宗のお盆=歓喜会(かんぎえ)
・・・・・ご先祖への感謝と仏道を歓ぶ
※一般のお盆=施餓鬼会(せがきえ)
・・・・餓鬼の世界へ堕ちている先祖を救うために、
施しを行う まとめ
浄土真宗では、お盆の時期に、故人を追憶しつつ、共に阿弥陀如来の摂取不捨のはたらきを歓ばせていただく行事として「お盆法要(盂蘭盆法要・歓喜会)」は行いますが、他宗のように「施餓鬼会」という法要は行いません。
これは、六道という迷いの世界の一つである餓鬼道に堕ち、苦しむ者に私たちが施しをするから救われるという考え方には立たず、私たちが救おうと思う心に先立って仏さまがもう既にお救いくださっているという、仏さまの大慈悲を受け取らせていただくのが浄土真宗の教えの受け取り方なので、故人を偲びつつ仏さまの救いを歓び感謝する法会として行うお盆法要なのです。
■お盆の由来!
一般的に「お盆」といいますが、正しくはウラボン(盂蘭盆)といいます。
『仏説盂蘭盆経』というお経に説かれていることをもとに、お盆の由来についてご紹介しましょう。
お釈迦さまの十大弟子の一人に神通力第一と言われた目連(もくれん)という尊者がいました。
目連尊者は、特に孝心の深い人でした。その目連尊者が神通力を得て、亡き母はどこの世界に生まれているのだろうかと探したところ、餓鬼道(がきどう 注1)に堕ちて苦しんでいることが分かりました。目連尊者は、なんとかして餓鬼道から母を救おうと、お釈迦様のもとを尋ねました。
その時、お釈迦様は、「母を救うのには、目蓮尊者そなた一人の力ではどうにもならぬ。自恣(じし 注2)が行われる7月15日に、百味の飲食物をお盆の中にいれて僧侶たちに施しなさい。布施の功徳は大きいから母は餓鬼道の苦難から免れるであろう」と。
目連尊者が、お釈迦様の教えにならい順ったところ、母はたちどころに餓鬼道から天上界に生まれることができました。(この時の目蓮尊者の喜びようが、盆踊りとなったという説があります。)
餓鬼道(がきどう 注1)
六道(ろくどう)の一つ。六道とは、仏教において迷いあるものが輪廻するという、6種類の迷いある世界のこと。天道(てんどう)、人間道(にんげんどう)、修羅道(しゅらどう)、畜生道(ちくしょうどう)、餓鬼道(がきどう)、地獄道(じごくどう)
餓鬼道は餓鬼の世界である。餓鬼は腹が膨れた姿の鬼で、食べ物を口に入れようとすると火となってしまい餓えと渇きに悩まされ、決して満たされることがないとされる。生前において強欲で嫉妬深く、物惜しく、常に貪りの心や行為をした人が死んで生まれ変わる世界とされる。
自恣(じし 注2)
インドの雨期は、川の氾濫・洪水による危険もある。そこで、修行僧は、雨期の3カ月間、洞窟や寺院内に留まり、修行に専心した。これを雨安居と呼ぶ。この雨安居の最終日(7月15日)に行われるのが、自恣である。この日には、僧侶たち一人一人が、雨期の間に犯した罪を全員の前で告白し、許しを乞う。
『盂蘭盆経』には、人々が親孝行によって父母を死後の苦しみの世界から救済したいなら、自恣(雨安居の終わりの行事)が行われる7月15日、おいしい飲食物をお盆にのせて、自恣の行事に参加するために十方からきた僧侶たちに施しなさいということが説かれている。
■浄土真宗のお盆の意義
ウラボンという梵語(サンスクリット語)は、倒懸(とうけん)ということです。
倒懸とは、頭を下にして足を吊られてさかさまになっり苦しんでいることを意味しています。
果たして、倒懸で苦しんでいるのは目連尊者の母だけでしょうか。死後にだけ餓鬼道があるのではありません。迷いを迷いとも知らず、真実を真実と信じられず、迷いを真実と誤解して苦しみ悩んでいる私たちは、仏の眼から見ると皆倒さに懸かって苦しんでいる餓鬼といえます。
亡き先祖のことばかりを案じて、わが身が餓鬼であることを忘れています。
浄土真宗では、お盆は亡き先祖を救う日ではなく、亡くなられた方をご縁として無常を見つめ、今、現に倒さに懸かって飢え、渇き、苦しみ続けて、未来永劫、流転しようとしている私自身が救われる道を、真剣に聞かせていただく日とさせていただかねばならない、と教えられます。
お盆の時期にお寺参りをしながら、仏教の教えに導いてくださったご先祖のお陰を感謝し、そして、「本当にこの私が、ご先祖を救うための施し(善)を行うことができるのか?」と、お盆が仏さまの目から見た私に気づかせていただく日になるならば、ご先祖さまもさぞやお喜びのことと思います。
築地本願寺新報に大変示唆に富んだお話が投稿されていましたので、ご紹介いたします。
「幸せって何だろう?
~被災者のプライド~」
熊本地震で被災された吉村隆真(よしむらりゅうしん)といわれる方が、築地本願寺新報に「幸せって何だろう?~被災者のプライド~」と題して投稿されていました。
「被災者はお客様ではない」「お客様気取りで何にでもクレームをつけ,やってもらって当然」という態度では、全国各地から善意のボランティアに対しても失礼ではないか。被災者のプライドを持とう。と
そして、被災したのは悲しく辛い出来事だが,決して悪いことばかりではあるまい。一滴の水がこんなにも尊いと感じた暮らしがあっただだろうか。日の出をこんなにも待ち焦がれた夜があっただろうか。家族との時間をこんなにも愛おしいと思えた日々があっただろうか。当然から始まる毎日が愚痴や不平不満を募らせ,感謝や感動を忘れさせてはいなかっただろうか。失ったものの代償として「幸せとは何か?」大きな目覚めの機会を、私は与えられたのかもしれない。と述べられていました。
築地本願寺新報から転載