明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
「和顔愛語」(わげんあいご)とは!
「和顔愛語」という言葉をお聞きになったことありますでしょうか。
私の座右の銘です。
この言葉を色紙に揮毫して、贈ってくださったのは、私が和田小学校から、南総地方教育センターへ転勤する時に、和田町在住の大先輩であった木村新吾先生が、贈ってくださったもので、大切にしています。今から25年前のことで、感慨深いものがあります。
この「和顔愛語」という言葉は、浄土真宗の根本聖典である『大無量寿経』に説かれる教えです。
経文には、「和顔愛語 先意承問 (わげんあいご せんいしょうもん」とあります。
現代語訳では、相手の身になって和やかで穏やかな笑顔と慈愛に満ちたあたたかい言葉を発し、相手の気持ちを慮って先んじて動くこと、仏の智慧に支えられた菩薩はこのような生き方をされると説かれています。
菩薩の行でありますから、凡人である私にはなかなかできることではありません。
新しい生活は「和顔愛語」で
おだやかな顔と やさしい言葉
『本願寺新報』2020年7月1日号に掲載(ポスター)
(添付のメッセージ文は末尾に記載)
妙好人 浅原才一さん
浄土真宗では、「妙好人(みょうこうにん)」と讃えられる、お念仏を喜ぶ人たちがいます。煩悩にまみれながらも、泥中に咲く、清らかな白い蓮華のように人生を喜んで生き抜かれた方々を指していう言葉です。
その一人に、石見(いわみ)の国(現在の島根県)の浅原才市(あさはらさいち)さんがいます。
左の肖像画は、「妙好人、浅原才市さん、 ~角のある肖像画~」と呼ばれています。
その才市さんが69歳の時、地元の画家が才市さんの絵を描いてくれました。完成した絵は、才市さんが座って有り難そうに合掌している絵でした。
周りの人は、とても才市さんに似ていると口々に言いました。
しかし、当の才市さんは納得いきません。それは「自分はこんな仏様のような穏やかな顔をしている人間ではない。自分は何かあれば人を排除して亡き者にしようとする鬼のような心がある。」というものでした。
そこで、才市さんは完成した絵に鬼の角をつけ足して書いてもらうことにしました。そして完成した絵を見て、これが自分の姿だと満足しました。
さて、私はどうでしょうか。鏡で見ても、外見にとらわれ、なんと顔が長くて、どう見ても不細工だな~、とため息が出る位で、内面の姿に気づかされることなどありません。
とてもとても、「和顔愛語 先意承問」などありえません。
普段は仏のような顔をしていても、鬼が住んでいる私ですから、気に入らなければ、顔や言葉に「鬼」が表れ、相手を傷つける私であります。
そんな時には、この「和顔愛語 先意承問」の言葉を、経文のように静かに唱えるようにしているのです。
「和顔愛語」は、布施の心
また、この「和顔愛語」という言葉は、「布施」の行の代表的なものであります。
「布施」の語は、インドの古い時代の言語(梵語(ぼんご)の「ダーナ」の意訳です。
布施の種類には、
1 法 施(ほうせ)・・・・・真実の仏法を伝え広める。
2 財 施(ざいせ)・・・・・金品を分かちあう。
3 無畏施(むいせ)・・・・・恐れを除き、癒(いや)しと勇気を与える。
があります。これを総称して三施といいます。
布施行を実践する時の理想的なあり方として、
1 施者(布施する者)
2 受者(布施を受ける者)
3 施物(布施される物)
の三者に固執観念のないこと。(三輪清浄 さんりんしょうじょう )と言います。
分かり易すくいえば、「私」が、「あなた」に、「○○」をしてやったと思わずに、みかえりやお礼の言葉を求めないということでしょうか。
折角良いことをしてあげたのに、有難うの言葉がないことに腹を立てたら、布施の行いが台無しになってしまいますね。
次に施す物が何一つなくても実践できる七つの布施(〝無財の七施(しちせ)〟といいます)があります。
1 眼施(げんせ)
優しく温かいまなざしで周囲の人々の心を明るくするように努めること。
2 和顔悦色施(わげんえつじきせ)
優しい笑顔で人に接すること。
3 言辞施(ごんじせ)
優しい言葉をかけるように努めること。
4 身施(しんせ)
肉体を使って人のため社会のために無料奉仕すること。
5 心施(しんせ)
心から感謝の言葉を述べるようにすること。
6 床座施(しょうざせ)
所や席を譲り合う親切のこと。
7 房舎施(ぼうしゃせ)
求める人や尋ねて来る人があれば一宿一飯の施しを与えその労をねぎらうこと。
「無財の七施」、如何でしょうか。
社会生活を営んでいく上で、大切なものを含んでいるとは思いませんか。
これらのことの一つでも心して行うことができたら、世の中大きく変わっていくとは思いませんか。
三輪清浄とは行かないまでも、相手の方を傷つけないように、嫌な思いをさせないようにと、新年に当たり、心に誓う私であります。
『新しい生活は「和顔愛語」で』
(『本願寺新報』2020年7月1日号に掲載)
【メッセージ文について】
「和顔愛語(わげんあいご)」とは、穏やかな表情と優しい言葉。とても尊いあり方ですが、これを本当の意味で実行するのはなかなか難しいことです。機嫌が悪いと無愛想になり、イライラすると他者を傷つける言葉さえ吐きかねません。調子のいいおべんちゃらや二枚舌も、不実な心が顔を出しているだけです。
しかし、その一方で、道ばたで困っている人を見かけた時、打算とかではなく、優しい言葉が掛けられることがあるのも事実です。それは、どこから来るのでしょう。私の不実な心からは、ありえません。打算はもちろんのこと、「してあげた」という思いがおこり、お礼がないと腹立ちに変わることも不実のありようです。そんな私たちに、阿弥陀さまのお慈悲が、はたらいてくださっているのです。阿弥陀さまの智慧の光に触れた者は、身も心も柔軟(にゅうなん)になります。阿弥陀さまのお慈悲に育てられ、私の不実な心の中に柔軟な心が芽生え、優しい言葉が発せられる身に育てられたのです。
くりすあきら君という少年の詩に、
ありがとうは、しあわせのあいさつです(くりすあきら『ありがとうのてがみ』)
とありました。「ありがとう」と言われたら幸せな気持ちになれますし、「ありがとう」が言えるのは、その人が幸せだからです。「和顔愛語」も、幸せの挨拶です。阿弥陀さまのお慈悲に出遇(であ)った幸せのおすそ分けを伝えてまいりましょう。