お釈迦様(釈尊)のご生涯
釈迦は現在の北インド、ネパール付近とされるカピラ城の釈迦族の王
(スッドーダナ)の子として誕生し、16才で妻をめとり、一子ラーフラをも
うけるが、29才老病死について悩み王宮を出奔。6年間の修行(苦行)の
末、この無意味さを自覚し、菩提樹下に端座瞑想し、35才にて成道。
以来、インド各地を遊行・伝道し、80才にて入滅。
1 聖夢・懐胎
ほぼ2500年以前、北インドの釈迦族のカピラ城にいた摩耶夫人が午睡中に天から白い象が降りてきて、自らの腹に入った夢をみてシッダールタを懐妊したと伝承されている。
2 誕生
摩耶夫人が城の近くルンビニー園(藍毘尼園)に行かれた時、産気づき近くの樹に右手をかけた時に無事安産で男子(シッダールタ)を出産した。(4月8日)
伝承ではこの時、7歩あるいて、右手で天を指し、左手で大地を指して「天上天下 唯我独尊 三界皆苦我当安之」と唱えたと言う。
3 出離 出家
シッダールタの誕生後、7日目に母の摩耶夫人は不幸にも死去し、王子の育成は摩耶夫人の妹であるマハープラジャパテイによってなされた。王子は聡明にして武芸にも優れ、かつ、感受性が強くものの憐れみにも敏感に感ずる青年となった。
王宮生活は何一つ不自由なく、16才でヤショーダラ姫と結婚し、一子ラーフラをもうけ、王家は安泰かに見えたが、王子の心中にある無常観は増大の一途をたどり、29才遂に王宮を抜け出す事となる。
伝承では、この城退出の契機を四門出遊(しもんしゅつゆう)と伝えている。ある時に王子が城の東門から出た時、老衰激しい老人に出会い、南門から出た時には、苦しむ病人に出会い、西門から出た時には、死者の葬列に出会った。そして、北門から出た時に、気高い修行者と出会い、その気品に打たれた。これが出家の機縁であると伝える。
4 苦行と供養
自ら髪を下ろしたシッダールタは乞食者となり、心の闇を開くべく、マガダ国等にて多くの修行者・思想家に教えを請うが、満足を得られずに、当時、多くの者が行っていた苦行に身を投ずる事となる。
シッダールタはこの苦行を6年間行ったが、己の満足を得られず、苦行の無意味を悟り、苦行の場所を離れ、尼連禅河(ニレンゼンガ)の辺で、村の娘スジャ-タの差し出す乳粥(牛乳のお粥)を飲み、やせた体から体力を回復して菩提樹の下で禅定瞑想に入った。
5 苦行
自ら髪を下ろしたシッダールタは乞食者となり、心の闇を開くべく、マガダ国等にて多くの修行者・思想家に教えを請うが、満足を得られずに、当時、多くの者が行っていた苦行に身を投ずる事となる。
6 供養
シッダールタはこの苦行を6年間行ったが、己の満足を得られず、苦行の無意味を悟り、苦行の場所を離れ、尼連禅河(ニレンゼンガ)の辺で、村の娘スジャ-タの差し出す乳粥(牛乳のお粥)を飲み、やせた体から体力を回復して菩提樹の下で禅定瞑想に入った。
7 降魔 悪魔の妨害
菩提樹の下で瞑想していると、天の悪魔の大群が、刀や弓矢で切り込み、あるいは美女の姿となって誘惑したりと、シッダールタの瞑想を妨害した。
しかし、シッダールタは強い意志と勇気と精神力でこの悪魔を撃退。迫る弓矢や刃は、身に届くことなく地に落ち、あるいは花びらとなって散り、誘惑する美女は雲散霧消したと伝えられる。
迫り来る悪魔の大群こそ、若きシッダールタの心の中にあった、欲望、嫉妬、葛藤等々なのであろう。
9 初転法輪 最初の説法
大悟した釈尊は初め、この真理は奥深くて難解であるので、説く事を躊躇していたが、天界の代表である梵天が現れ、是非にもこの真実を多くの人々に説くように請うた。これを梵天勧請と云う。
釈尊が最初に教えを説いた相手は、苦行を離れたシッダールタを堕落したと誤解して袂を分けた5人であった。この5人は悠々と歩く釈尊を見て無視傍観していたが、その堂々とした気品に惹かれ、説法を聞いて最初の弟子となるのである。これが最初の仏教教団の形成(僧伽サンガ)となる。
以来、80才入滅までインド各地を説法巡回し、仏典にはいろいろなエピソードが示されている。以下にその中の数件を掲げてみる。
キサ・ゴータミー
若い母親のキサ・ゴータミーは可愛い我が子が死んだ事を受け容れる事ができず、生き返らせる方法を求めて半狂乱であった。そして、釈尊のところで心中を訴えたところ、釈尊は「生き返る方法を教える。芥子の粒を私の所へ持ってきなさい。但し、親兄弟や親戚の誰も死んだ者のない家から」と。
若き母は難なき事と思い、町中を探すが、死者をだした事のない家は一軒もなかった。
途方に暮れて釈尊の許に戻った母に「諸行無常(しょぎょうむじょう) 生者必滅(しょうじゃひつめつ)」を釈尊は説いて、母の心は救われ、母は尼僧の弟子となった。
大愚 チュッラ パンタカ
チュッラパンタカ(周梨槃特 しゅりはんどく)は兄と共に釈尊の弟子となったが、兄の聡明さに比較して、まことに愚鈍で、一つの句さえも記憶できなかった。そこで、彼は自らの愚鈍を恥じて教団を去ろうとするが、釈尊の「自らの愚を知る者は真の知恵者である」という言葉を聞いてこれを思いとどまる。
しかし、教えの何一つも覚えられないチュッラパンタカに、釈尊は一枚の雑巾を与え「塵を払い、垢を除かん」とだけ覚えて、掃除を命じた。やがて彼は、その行為が自らの心の掃除である事に気づき、終生この修行を行い、自己の他の心を清掃し、清浄なる生涯を送った。
*雑巾の汚れは、怒り、貪り、執着などの心の垢である。
*理知・聡明であっても、体得し実行しなければ意味がない。智者も愚者も無関 係である。
俗説に「茗荷(ミョウガ)を食べると、もの忘れしがちになる」というのがある。これはチュッラパンタカの墓から生えた植物がミョウガであったという説から転じたもの。茗荷の漢字は一説に、自分の名前さえ忘れてしまうので、名前を札に書いて掛けていた、からであるという。しかし、このミョウガは薬味として心身をピリッとさせてくれるのであるが。
8 10 入 滅
北インド各地を巡回説法の旅を続けた釈尊は、パーヴァー村で鍛冶職のチュンダに説法し、供養された食事(豚肉or茸)を食べ体調を崩し(食中毒?)不如意ながらクシナーラに着くが、動くことができず、静かに入寂された。この時の、弟子のみならず全ての階級の人や、獣や虫等全ての生き物が別れを悲しんでいる有様を描いたものを「釈尊涅槃図」という。
釈尊の脇に立つ大木がサーラの木(沙羅双樹)である。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす 【平家物語から】
【解説】
須達(しゅだつ)長者が釈尊とその弟子たちに寄進した寺「祇園精舎」の諸堂に鳴り渡る鐘の音には、世の中の一切のものは、常に変化し生滅して、永久不変なものはないという、諸行無常の響きがある。釈尊が入滅した時、鶴のように白く枯れ変じたという釈尊の病床に相対して生えていた二本の沙羅の木の花の色は、この世では、栄華を極めている者も、必ず衰える時があるという、盛者必衰の道理を表している。 世に栄え得意になっている者も、その栄えはずっとは続かず、春の夜の夢のようである。勢い盛んで激しい者も、結局は滅び去り、まるで風に吹き飛ばされる塵と同じようである。